秋田県立美術館へ行ってきます。

日常

孤高とは、「義」を貫くことである。

明日仕事したら、3連休です。
月から1泊だけ、秋田へ行ってきます。
特にあちこち回る計画はゼロ。
目的は秋田県立美術館ただひとつでございます。
昨年から、10月~1月のどこかで行くことは決まっておりました。
戸嶋靖昌の個展が開催されているのです。

【私よりも奥さんが「カッコイイわぁ~」と、いつも言っております。】

春の時点で、「開催するのかね~」と話しておりましたが、さすがの予定通り開催です。

【執行社長の著書は、表紙とにかくカッコイイ。「根源へ」のカバーも戸嶋芸術でございます。】

「根源へ」を初めて読んだ時は、何が何だかわからないことだらけでした。
いきなり最初に、「私とは何であるか」と考える現代はエゴイズム故のもので、本来「何が私であるか」を問題にするのが人間なのだと書かれているわけです。

ね。
わからないでしょう。

でも、何冊も何冊も、また何度も何度も読んでいると、身に沁みてくると言いますか、自分の中で肚に落ちて行く部分が出て来るのであります。

中世のの人々は、この問いによって宗教、主君、国家、そして人生や生活の意味について考えをめぐらし、自分が何のために生き、何のために死ななければならないかを考えていました。
だから、何かの価値のために生きている自分の使命、つまり生きがいを感じやすかった。
誰もが自己の死生観を知らず知らずに持つことができたのです。
「何が私であるのか」を問えば、生まれた自己にそのまま価値があるのではなく、自分が価値のある「何か」を目標に生きることに繋がっていくのです。
生まれる前から、世の中ですでに価値が認められている「何ものか」に自分を合わせるということです。
そして、その価値を身に付け、それを体現するために努力し続ける生き方です。【「根源へ」11頁より抜粋】

たしかに、「俺って何だ」は傲慢です。
「最初から価値ある人間なんだ俺は」と同義です。
今はそう思う。

「何が俺なんだ」を問い、価値ある死に方をした人の魂に自己を合わせることが重要なのです。


【新幹線では「孤高のリアリズム」を読んで行きます。】

孤高とは、「義」を貫くことである。【孤高のリアリズム2頁より抜粋】

このたった1行だけで、この書には価値がある。
カッコ良過ぎる。
秋田では、すごいものに触れ、魂を震わせてきます。

 

秋田、寒いのかな。
まったく調べておりません。
宿泊などはすべて奥さんに任せているので、私は何も知らず行くのみです。
有名な宿はすべて完売だったとのことです。

新幹線とのことです。
5時間くらいかかるらしい。
この5時間で戸嶋動画を総復習し、書籍も読み返しながら向かいます。
5時間も贅沢時間です。
いろいろできそうです。
行きはさすがにビールはやめておこう(^^ゞ
寝て終わってしまうから。

まずは明日をやり切ろう。
通信後予約が殺到中です。

P.S.
家に本棚を増やそうと計画中です。
壁一面本尽くしになりそう(^_-)-☆
いつかは書斎を持ちたい。
それが今の目標です。

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toru-imizu

関節エステプロフェッショナルアカデミー代表の射水徹です。

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