火曜日は、プチマスタークラス(関節エステ勉強会)です(^_-)-☆

日常

偉人は、「自分が活躍する」すれば、「その分誰かが落ちている」という当たり前を、戒めとして常に持っていた。

火曜日は関節エステ勉強会です。
もちろん、リアルセミナーです。
安心して堂々と受講してくれ(毎度そういうメンバーしかいないから今更だが)。
もちろん、地方組はお客様には内緒で来るが良い(矛盾)。
わざわざ「東京アレルギー」を着火させる必要はない。
ただ、もう堂々と胸を張って受講したまえ。
リアルで勉強して何が悪い。

私自身も2020年中も変わらずそうしていたし、今年もそうしている。
環境は関係ないのだ。
どんな状況にあろうが、やる人はやるし、理由をつけてやらない人はやらない。
自分で好きな方を選べばよいだけなのだ。

もちろん、体調不良、咳、発熱あったら来ちゃだめよ。
来ても帰すからね。
そんな人はいないことは解っているのだが(笑)

今回の勉強会は全3回毎回同じメンバーでできるのが良い。
過去初めてのことです。
プチマスタークラスだと思ってやります。
実際、勉強会ではマスタークラスではやらないことも含まれている楽しみがある(*^^)v
受講メンバーが、マスターメンバーだらけでそうなった経緯があるのだが(笑)
結果として、良かったと思う。

今回はレジュメの大幅変更はありません。
初受講の方もいますからね。
ただ、脱線はドンドンしてもいいのかなと思います(^_-)-☆

4時間集中して勉強しましょう(^_-)-☆

 

今ある環境はすべて自分で選んでいる。
「やらされている」と感じることでさえ、自分でやらされることを選んでいる。
出ている結果に対して、ダイレクトに結果を変えるアプローチは大変です。
結果に至るプロセスを変えるのは簡単です。
例えば、「お金がない」という結果に対して、「宝くじを買う」というアプローチは、結果をダイレクトに変えようとしている。
だからほとんどは「よりお金を失う」苦しい結果となる。
「お金がない」という結果に対して、「バイトしよう」「仕事を増やそう」「勉強しよう」「仕事のやり方を変えてみよう」というアプローチは、プロセスを変えようとしている。
プロセスを変えるから、その動きに応じて結果が変わるのである。
関節エステではいつもこの話をする。

マスタークラスはその期間中、各々のプロセスへアプローチをする。
今日も一人一人の小さな積み上げが上がってきます。
私にできることは、背中を押すことのみ。

 

 

宇宙動きて我動くなり。我が動くもこれ宇宙の動きなり

野口晴哉先生の言葉は力になる。

宇宙エネルギーの一部に、生命エネルギーがある。
受精卵が卵割を起こすのは、「受精卵に生命エネルギー(負のエネルギー)が貫通するから」だという。
もちろん数値的な証明はできない。
「負のエネルギーは科学的な計量を拒絶する」と、執行先生の著書に書かれている。
肉体を動かすエネルギーは、熱エネルギーという酸化エネルギーだ。
これを正のエネルギーという。
食事をしたからと言って精神力が高まることはない。
人としての精神性が高まるのは、負のエネルギー(還元エネルギー)が注がれるからである。
書物を通じて偉人の魂に感応すれば、感応する瞬間に、生命エネルギーが注がれるのだろう。

人はパンのみにて、生くるものにあらず

生きていく上で様々な困難と遭遇した際、運命を受け入れ突き進むためには、精神を立てる必要がある。
「魂が人間なのだ。」
この言葉の意味を、最近ようやく身に染みて感じる。
肉体だけならば、それは人間ではなく、ただの動物だ。

魂とは肉体を拒絶する何ものかである。

今は逆転現象が起こっている。
肉体のために魂を捨てているように見える。
魂よりも、肉体を重んじているのが現代だ。
精神力の欠片もない。
嫌なことがあれば、すぐにポッキリ折れるのは、それだけ潔癖な世の中に身を置いてきた証だろう。
養生とは良いことのみを取り入れることではない。
同時に適量の毒も食らい続けることが本当の意味での養生となるのだ。
そうやって肉体的にも精神的にも毒を注入することで、困難にも立ち向かえるようになるのだ。
その困難をトコトン排除しようとしているのは、誰の目にも明らかだろう。
「肉体を拒絶」どころか、肉体礼賛ばかりなのだ。

つけ麺食ってりゃ生きられる。
死にはしない。

だが、いくらつけ麺を食っても人間の根底を支える力にはなり得ない。

生命は負のエントロピーを食べて生きている

根底を支えているのが精神であり、その精神を立てるのが、負のエネルギーである生命エネルギーと言える。
その生命エネルギーの量は、常に一定だそうだ。
どこかに注がれれば、どこからか抜ける。
会社組織で例えると解りやすいように、全員が全員やる気満々にはならないのと同じだ。
よく言う2:8のように、2の活躍のためには、8のグータラが必要なのだ。
8のグータラのお陰で、2の活躍があるとも言える。

「いや、私の会社は2:8どころか、全員がすごい活躍をしているんだ!!」
だとしたら、どこかの会社がその分活躍できずにいるだけのことなのだ。

「10人いたら10人全員が活躍しないと駄目だ」と考えるのが現代流の仲良し思想だ。
もしくは、「あの2人の活躍を許せない!あの二人も引きずり下ろせ」となることも、適当にSNSコメントをちょっと見ればわかることだろう。

でだ。

それで良いのだ。
そういうことを言う者もいるのが、社会なのだ。

誰かがやる気を出すと、誰かがやる気を失ったり、足を引っ張ったりしてエネルギーのバランスをとっているのだ。
生命エネルギーがそういうコトだと知れば、あとは自分が足を引っ張る側が嫌だと思えば、そうならぬよう自分で自分を戒め毎日を過ごせば良いことになる。
能動的な人生となる。
1億総活躍社会など、傲慢甚だしい社会だと私は思う。
聞こえは良いかもしれないが(私はそうとも全く思わないが)、もし1億総活躍するとしたら、その分どこかの国では真逆が起こるのが、生命現象と言えるからだ。
それが宇宙の秩序と言える。
それは各家庭、会社内、仲間内、国家間、どこでも起こり得る。
日本が上がれば、どこかが下がる。
そんな具合だ。
だからこそ、「偉人は常に謙虚」だったという。
「自分が活躍する」ということは、「その分誰かが落ちている」ということを、戒めとして常に忘れずに持っていたということなのだ。
昔の日本人は、そういうことを肌感覚として今よりも感じていたのだろう。
カッコイイし、憧れる。
なかなかそんな風に思えるものではない。
だからこそ、思いたい。

全員が全員活躍しなければならない社会。
そんなものが本当に良い社会なのだろうか。

こういう一見誰の目にも良く見える、良く聞こえるコトを振りかざしてくる。
否定をすると、「なんでだ!全員が活躍した方が良いに決まっているではないか!そのために保障をしっかりし、子育てしやすくし、経済を強くするのに何が悪いんだ」と言われるのが落ちだ。
否定の仕様がないことをかざしてくる。
それを民主主義だと勘違いしているのだ。
清潔で安全で安心で誰もが活躍を目指す、毒のない世界。
途轍もなく息苦しい社会に私には見える。

 

自分自身を磨きあげることが、目に見える人助けや世界を救おうという行為より、はるかに重要なことだ。

成瀬先生の言葉の意味が、最初は良く分からなかった。
「逆じゃないか?」とさえ思ったことがある。
でもそうではなかった。

矛盾しているようで、矛盾していないこと。
今は心の深淵なる場所で、うっすらと感じられるようになった(気がする)。

ずっと問いを持ち続けたい。

P.S.
続きは関節エステ勉強会で。

( ゚Д゚)!?

もちろん冗談です(笑)

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toru-imizu

関節エステプロフェッショナルアカデミー代表の射水徹です。

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