国は、「私がどう生きるか」など、決めることはできない。

日常

受難は情熱で燃やし尽くせ。

明日は臨時休業で、セミナー受講してきます。
朝から18時までの1日掛かりですので、治療院は閉めました。
気持ちを落ち着けて受講したいので。

今日は午前中に歯医者へ行きました。
都営線のホームに私ひとりでした。

空いている10時台とは言え、こんなことは、未だかつてないこと。

最近は治療院の帰り道も真っ暗です。
戸越銀座商店がも真っ暗。
あまりに人がいないもので、背後に気を付けながら歩いております。

歯医者さん後は、カフェに行って次の動画の原稿を書きました。

【これからもう一歩進めます。】

治療院のホームページを再度最新版に修正し、これからグーグルの方も更新です。
本当に気を抜くと時間だけが経過して行きます。
いまやるべきことと、そうでないことを振り分けないといくらあっても時間が足りない。

明日からのセミナーは楽しみですが、初めての場なので緊張もしております。
過去最大のセミナーへの自己投資です。
何が何でもモノにしていきます。
死ぬ気で食らいつき、死ぬ気でやり切る気持ちでいます。
実際は半年後、セミナーが終わってからが勝負だろう。
とにかく今年1年はここに全精力を注ぎます。
2022年には自己化して「こんなの当たり前ですが何か?」という状態にします。

私の人生におけるもっとも大切な価値観は、「情熱」です。
情熱とは厳しいものです。
Passionには、情熱の他に受難という意味があります。
実際は、受難が第一義なのだそうです。
「難を受ける」ことは誰もが避けたいことと今では受け取られますが、「難を受けぬ」ということは、結局それだけの情熱を注いでいないからなのだろう。

「まぁ、これでいいや。」

この言葉に情熱は欠片もない。
これでいいことなどないから情熱なのであり、だからこそ「難を受ける」こともできるのだ。

受難は、人間がもつ情熱によって引き起こされます。
しかし、その情熱こそが、苦難に耐え、それを乗り越える力を我々に与えもするのです。
苦難を乗り越える力というのは、もともとが、愛の力なのです。
だから、情熱のもっとも崇高なものが愛なのです。
愛と言うと日本人にはわかりにくいでしょうが、言い換えれば希望です。
憧れであり、真の犠牲的精神を生み出すものです。
宇宙と生命の根本においては、犠牲が愛の本質なのです。
したがって、犠牲を伴わぬ愛は存在しません。

そして愛を伴わぬ希望も存在しないのです。
苦難を乗り越えるのは、愛に裏打ちされた希望の力しかないのです。
つまり、情熱の裏には希望の力が隠されている。
だからこそ、人は情熱に突き動かされ、受難に遭うべきなのです。
それが正しい生命観であり、また物理的な宇宙観にも裏打ちされた生き方の根源ともなるのです。
受難を引き受けない人生は価値がない。
それは希望のない人生が、人生ではないのと同じです。
これは厳しいことかもしれません。
しかし、それが生命の哲理なのです。
自己の生命を使い切る、価値のある人生を生きようとするなら、受難を恐れてはなりません。
また、自己の生命が、真に他の存在の役に立ちたいのなら、自己独自の情熱を抱き締めなければなりません。
【執行草舟著 根源へ 241頁より抜粋】

長い引用になりますが、2016年3月以来、この一文が死ぬほど好きになり、何度も何度も読み返している。
特にここ最近は「根源へ」を常に持ち歩いているので、毎日読んでいる。
まず、カッコイイ。
そして今ほど、「受難を恐れてはなりません」という言葉を自己化して生きる時はない。
誤解を恐れずに言うなら、ウイルスのことはウイルスに任せておけばよい。
誤解を恐れずに言うなら、緊急事態だろうがなんだろうが、そんなことは政治家たちに任せておけばよい。
自己の人生を生き切るために、ウイルスがどうだ、緊急事態がどうだ、ということは、一向に関係がない。
それを言い訳にやらないなら、それもその人の人生なのだ。
そう厳しく受け止めて、情熱を持って今を生きることを遂行するのみ。

国は私がどう生きるかなど決めることはできない。

明日からのセミナーも、きっかけに過ぎません。
セミナーをきっかけに、自分の役割を全うする。

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toru-imizu

関節エステプロフェッショナルアカデミー代表の射水徹です。

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