心と精神と魂は、何が違うのか。
過去のYouTubeの動画タイトルを見直しました。
やり出したら止まらなくなり、夜中までやってしまった。
次の動画のサムネとタイトルを考えていた時、「過去のはどうだったかな?」と。
昨年受講したYouTubeセミナーのレジュメは、今も動画作成ごとに開きます。
様々な注意点があるのですが、過去に遡れば遡るほど、学んだことがまったく活かされていないことに気づきます。
レジュメの情報が大量なので、まだまだ活用しきれておりません。
タイトル部分で、やってはいけないことをたくさんやっていた(-_-)
そこだけ改善しました。
あくまでそれも改善点の一部に過ぎず、本当はもっと変えないといけない点が山ほどあります。
そういうことに、当時は気づかなかったわけです。
そういう意味では、少しずつ考えられることが増えてきた。
私の場合、そもそも本数が足りないので、あまり囚われる必要はありませんが、今後の新作動画をアップしていくためにも、一度できる範囲で修正をしました。
いい勉強になりました。
レジュメを開かなくても、当たり前にできるようにならないとね。
まだまだです。
明日は朝から施術が入っているので、そろそろ寝ようかなぁ。
風呂に浸かってから寝よう。
まだまだ脳が覚醒してしまっている感じです。
時には規則正しい生活から脱することも、身体に必要なことだと思っております。
身体に良いことばかりが養生ではないのです。
毒がなければ強くなりませんから。
「朝昼晩、常に決まった時間に食事をすることの方が、生命力を弱める。」
以前、ヨーガの成瀬先生がおっしゃっていた。
「時間だから食べよう」は身体の声を無視することになります。
野生動物は常に食にありつけるわけではありません。
時に何日も空腹で獲物を追い続けることになる。
もちろん獲得できなければ、待つのは死です。
野口晴哉先生の著書にも、「ゆっくりよく噛んで」が必ずしも良いわけではないとある。
お腹が空き過ぎて「ガーッ」と食べたい時は、それが身体の要求なのだからそうすれば良いと。
「こうしたい!」と思った時に、「あ、でも、こうしたら良くないから一応こうしておこう」と、頭で考えてばかりいる人は、力が抜けなくなる。
私はそう思っていて、施術していても、ちょっと失礼な言い方になってしまうかもしれませんが、極端に「動きがブサイク」な人ってやっぱりいるのです。
身を委ねることができないのだ。
もしかしたら、日々、我慢が多いのかもしれない。
人に任せられないのかもしれない。
良くも悪くも、生き方が出るものだなぁと常々思います。
要求に逆らっていることの繰り返しで、大きくズレが生じた時に、人は病むのです。
先月の私の心臓もそういうコトなのだと思います。
ブサイクな生活の結果なのです。
痛みを抱えたり、病気になるというのも、大切なことですが、今は痛みに過度に弱くなっています。
「何もしてないのにどうして痛いの?」とよく聞かれますが、大抵は脳が悪いのです。
脳が悪いと、どこに痛みを出すか?
それは「身体の何処か」です。
酸欠は痛みを生み出しますから。
痛みが出たら、病気になったらやはり生活を見直すことが一番となります。
それは考え方も含めてです。
生活とは行動だけではなく、行動を起こすのは思考であり、その思考を生み出す「気」でもあるわけです。
その「気」を、昔は「霊魂」や「魂」とも言っていた。
そういうことを度返しで、ただ薬で症状を止めることに走れば、慢性化です。
薬はうまく経過させるために、上手に使いたい。
90%以上の病いは「生活習慣病」なのですから、私の感覚的には、暴飲暴食を止めれば、大抵は好転すると思っております。
それは、腰痛や肩こりに関してもですね。
私の場合、暴飲暴食してしまうに至る、「気が悪い」ということでしょう。
心と体が大事と言いますが、他に大事なことはないのだろうか。
心と精神の違いは?
心は移ろう。
恋心と言うけど、恋精神とは言わない。
恋心みたいに、「あの頃は好きだったけど、今はサッパリ」という具合に移ろうのが心です。
要はウロチョロしている。
心が大事と言いますが、心なんて、フワッフワしてるだけです。
心の時代と言いますけれど、「フワッフワな時代」と言ってるようなものではないか。
そう置き換えてしまうと、かなりダサく聞こえてしまう。
精神と言うのは、積み上げて行くものだと思います。
イチイチツマラナイコトに流されない精神を築いていく。
ただ、「精神力」という言葉があるように、どうも「心に近い」気がします。
「心力」という言葉もあるように、心力とは精神力のことらしいので。
そういう意味でもやはり近い。
心のフワッフワに流されないだけの精神力。
ちょっと「我慢」を感じます。
「武士は食わねど高楊枝」は、「やせ我慢の精神」ですが、そう考えると我々現代人は「そのやせ我慢すらもうできないところまで来ている」ように感じます。
満たされていることに、慣れ過ぎたのだ。
精神と魂はどう違うのか?
時代精神と言いますが、時代魂とは言わない。
精神世界と言いますが、魂世界とは言わない。
大和魂と言いますが、大和精神とは言わない。
精神疾患と言いますが、魂疾患とは言わない。
精神科はあっても、魂科はない。
上に、「やせ我慢の精神」と書きましたが、やはり「やせ我慢の魂」とは言わない。
こうして挙げていくと、何やら見えて来る気がする。
明らかに、精神と魂とは、次元が違うように感じますよね。
まったくの別世界にあるように感じます。
魂はあきらかに貫くものがある。
また重厚かつ深淵で、時代に流されるようなものではない。
脈々と受け継がれしものを感じる。
「魂を捨てるくらいなら、命も惜しまない」というように、まったく動じぬものを感じるでしょう。
「精神を捨てるくらいなら、命も惜しまない」とは、言いませんよね。
だから、人間とは、魂なのです。
魂を練り上げる。
どんな時代に在っても自己を貫き、悲哀を呑み込み、周囲がどうだとか、アイツがどうだとか、そういうこととは無縁にあるのが魂なのだと感じます。
本当は誰もが、その魂を持っている。
受け継がれ継承してきたものが、在る。
今は、その時代背景的に忘れ去られているのが、人間の「魂の問題」なのだと思います。
テレビで流れるのは、経済がどうだ、金がどうだということだけです。
でもそれは当然のことなのです。
魂を問題にするような人間が増えたら、現代の物質主義は成り立ちません。
そういう面倒な人間はいないに越したことはないのが、現代と言えます。
フワッフワしている人間が多ければ多いほど、現世における上層部には都合が良いわけですから。
そういうことなのです。
残念なことだが、現代人の魂など、骨抜き状態にあると言っても良いでしょう。
私などまだまだですが、その魂を練り上げるには、「魂に生きた人物の書」に触れることだと思います。
良書はたくさんあります。
良書からは、絶対負のエネルギーが体内に注ぎ込まれます。
肉体に栄養が必要なように、魂にも栄養が必要です。
それが、シュレーディンガーの言う、「生物は、負のエントロピーを食べて生きている」ということなのです。
眠くなければ、寝なければ良いですね。
「日中眠くなったらどうするの?」と心配する人がいますが、寝れる状況ならば仮眠を取れば良いし、そうでないなら起きているしかないわけで。
明日を思い煩うことを、「取り越し苦労」というのであります。
「私がうつしたらどうしよう。」
いま流行りのワードですが、それと同じです。
ずっと家にいたって、感染する人は感染するし、もしくは別の病に出くわすこともあるのです。
考えても仕方のないことは考えても仕方がないのです。
「それができないから悩んでるんです。」
だとしても、「考えても仕方ないよな」と、ふと思えることは大切ではないか。
それがほんの少し肩の荷を下ろすきっかけになるかもしれないからです。
うーん。
やっぱり眠くない。
ひとまずこれで、明日の(今日の)ブログが終わった。
明日は夕方から奥さんと予定があり、治療院は少々早く閉めます。
とりあえず、3時間ほど寝るとするか。
P.S.
かなり久し振りの夜更かしでした。
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