わからないからこそ、触れるのだ。
今朝は昨日に引き続き治療院のホームページ修正や、Googleビジネスプロフィールの更新をしました。
家でやる気分でもなかったので、近所のベローチェで。
朝でも戸越八幡へ行く方が多いのでしょう。
ベローチェも半分くらいは席が埋まっておりました。
勉強している学生も。
もうすぐ受験ですからね。
内部進学をした私としては一般受験などまったく考えも及ばない。
当時、一問もできなかっただろうな(笑)
本当に学業は高校でダメになった。
432人中416位くらいまで行ったのを覚えております。
日大の統一試験(内部進学の試験)は、「まぁ、マークシートだから何とかなるだろう」で臨んだ。
数学だけが得意で、毎回高得点だったのだが。
理系には女子がほぼほぼいないことを理由に、文系を選んだ(理系を選んだところでって話ですけどね)。
あと、友達が皆「俺文系行く」と言っていたのもあり。
ただの大馬鹿野郎です。
こうして現在の自分を見ていると、生きる道はいくらでもあるもので。
それが、「いい大学」「いい会社」「安定した職業」という、「間違った方向」に行ってしまうと苦しいだろうな。
仮に第一希望に行けなくても、自分の行けたところが自分の住む場所なので、それが良いと思うのです。
世の中には根っからの勉強好きもいて、楽しみながら東大へ行ってしまう人間もいるのです。
そういう人はやはりそういう道が合っているのです。
「将来就きたい職業は公務員です。」
今の高校生の就きたい職業NO.1が公務員だそうです(小学生はたしかYouTuberだった??)。
如何に大人から「安定安定」と言われて生きているか解りますよね。
我々大人のせいでもありますね。
きっと周囲にカッコイイ大人がいないのでしょう。
別に公務員が悪いと言っているのではなくですよ。
それでいてネットでは、「楽して稼げる」と謳われ、「ワーケーションしながら○○〇万」などのフレーズに影響を受けるから、また病むのだろう。
五反田のドトールに行くと週イチはそんな勧誘話が聞こえてくるからね。
すべてとは言いませんが、なりたい自分になれるとか、理想の働き方を叶えるとか、そういうコトに晒され続けることで、そういうコトが成功なのだと勘違いしてしまう子が、少なくはないのだろう。
逆に言えば、そういうコト以外はダメな人、みたいな。
「本来あるべき(と思い込んでいる)自分」との乖離に耐えられない。
大学卒業後MBAを取りに行くという大学生の子に、「どうしてMBAを取りに行くの?」と聞けば、「お金持ちになれるから」と。
以前、医者バージョンも同じ回答だったな。
まぁでも、20代前半の頃の自分も似たようなもので、カイロを勉強して治せるようになったら医療に携わっているようでカッコイイから、とか。
開業して月収100万になったらイイ生活ができるから、とか。
そんなことを考えていたようにも思います。
表現が難しいのだが、まだ我々の時代には近くに憧れがあった気がします。
こう書くと今が全てダメかのようだが、そうではなくね。
もちろん、今もあると思うので。
なんだろう。
まだ近隣との距離が近かったと言いますか。
「先生みたいな先生になりたい」とか。
「〇〇君のお父さんカッコイイよな」とか。
そういうことがリアルな現実としてあった気がします。
身近に。
当時は今ほどはバーチャルではないわけですから。
恐いと感じる大人も多かった。
今の子たちに当時の我々の恋愛を伝えたら、「それってストーカーじゃないですか?」となりますよね?
そういう意味では、我々が中学や高校生くらいの時は全員男はストーカーをしていたのでは?(笑)
待ち伏せて声をかけたりね。
好きな子の住んでいる家の駅まで行って、公衆電話で家に電話をかけ呼び出したり(しませんでした??)。
それでちゃんと来てくれたしな(笑)
それでちゃんとフラれましたが。
今やったら、本当にただの危ない人になってしまいますけどm(_ _;)m
話が逸れましたが。
誰もが活躍できる社会。
取り残されない社会。
聞こえは良いのだが、聞こえの良い言葉というのは一歩引いてみないと結構危険です。
一時の「全員で手を繋いでゴール」じゃないですが、なんとも言えない気持ち悪さがある。
生命的には、益々「生き切れない人間」を量産する社会になるだろう。
私にはそう見えてしまう。
スローガン的なものは、一歩引いたところから俯瞰してみるのが丁度良い。
そもそもだ。
「君は安定するためにこの世に生まれ落ちたのか?」
「君は皆と同じように活躍するためにこの世に生まれ落ちたのか?」
「君は取り残されずに生きるためにこの世に生まれ落ちたのか?」
そう聞かれると、どうだろうか。
私は安定するために今生を生きてますッ!!!!
って、ちょっとおかしくないだろうか。
居ても良いわけですが。
人それぞれの価値観です。
でも、その価値観は、誰に植え付けられた価値観なんだい??
一歩引いて考えてみる価値はあると思う。
こう書くと自分を省みることにも繋がります。
結局のところ、「自分の考え」などほぼほぼ皆無でしょう。
触れた人間、触れた言葉、触れた活字からの影響でしかない。
ただ親や生まれた国を呪ってもそれも仕方がない。
それは宿命なのであって、その宿命を受け入れないことにはどうにもならず。
万が一、どんなに酷い親だとしても、大人になるまで生きてこれたということは、必ず誰もが「一片の愛」を受け取ってきたからなのです。
それはもしかしたら、親からの愛ではないのかもしれない。
様々な境遇があるから。
それでも、誰もが確実に「一片の愛」を受けてきているから、今生きているのだ。
って、執行草舟先生がおっしゃっていた。
ほら。
私の言葉などないのです。
影響を受けてきた言葉があるだけです。
受験生は今はそんなことなどどうでも良いわけです。
「とにかく受かりたい!」で良いのです。
死ぬ気で受験勉強をして、いい大学に行けば良いのです。
ただそれで精神がおかしくなるところまで行くのは、間違っているわけで。
それは大人が気づいてあげたいよな。
20代はこれからまだまだいい出会いがあります。
それは人であり、また過去に生きた偉大な人物であり、言葉です。
私もまだまだ過去に生きた偉大な人物が残した古典に触れていきたいと思っている。
古典に触れることは、過去の偉大な人物と会話することにもなる。
私などまだまだそこまで読み込めていないのだが、会話ができるようになりたいと思って読んでいる。
死ぬまで出会い続けたいと思って過ごしております。
硬直は死です。
思考が硬直すると、受け入れられなくなる。
残りの人生、半分もあるのか解りませんが、その日まで柔軟で在り続けたい。
出会うためには、一度自分の「でも私はこう思う」を捨てることだと思います。
その、「でも私はこう思う」のは、今までの価値観であり、どこからの価値観なのだろうか?
常に問いを持ち続けたいですね。
P.S.
今日は「不合理ゆえに吾信ず」を読みました。
サッパリわからなかったのですが、「わからぬがよろしい」のであります。
何となく、カッコ良さだけを感じられた。
いつ終わるかわからぬ人生。
わからぬものに、体当たりし続けて逝きたい。
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