俺たちは健康になるために生まれてきたのではない。

日常

何故、私は存在するのだろうか。

予想通りまたまた東京での人数煽りが始まっております。
テレビが煽るのはまぁ善しとして、もういい加減それを見る方が煽られることを止めたら良い。
いい加減飽きないものですかね。

テレビは煽るだけ煽ります。
そうすることで得する人もいるのです。
恐れる人がいればいるほど、得をする人がいるのです。

「こうしないと病気になるよ。」
「濃厚接触者が○○人です。」
「新規感染者が〇〇人です。」

「病気になったらどうしよう。」
「感染したらどうしよう。」
「移しちゃったらどうしよう。」

肉体のことばかりを考えていれば、恐怖に縛られるのは当然と言えば当然です。
その誰かから伝え聞く世界は、本当にそんな世界なのだろうか。
こんなおかしな、非科学的な感染対策も、いつまで続けるのだろうか。
それを解ってやる必要がある。
自分も一緒になって真に受けているようでは全然ダメだろう。
本当は馬鹿らしいと思っている点もあるだろう。

世間と一緒になって取り越し苦労ばかりしてはいないだろうか?
世間と一緒になって恐怖に身を縛られてはいないだろうか?

「楽観的に生きよう」と言っているのとは違います。
本当に大切なことを見失ってはいないかと思うのです。

肉体大事という考えが行き過ぎたのです。
今に始まったことではないのですが。
もう歯止めはかからないし、それは仕方のないことです。
行くところまで行くしかない。
物質至上主義の頂点が今なのだから、肉体という物質にばかり意識が行くのも、無理もない。
だから肉体のことなど省みずくらいが私は丁度よいと思っております。
肉体のことなど、最低限自分でやると決めたこと以外は、忘れれば良い。
人間とは肉体ではなく、魂なのだから。

どうしてキメツの煉獄さんに多くの人は涙したのだろうか?
生き様に魂を感じるからだろう?
煉獄さんが肉体に傷を負うコトを恐れて、鬼から逃げていたらどうよ。
あの時どうして上弦の鬼は逃げたのか。
肉体大事だからです。
人間とは精神なのです。
人間は魂なのです。
だから煉獄さんは母から受け継いだ魂に準じて戦い抜き、逝ったのだ。
ちょっと考えれば人間が肉体ではないことなど当たり前のことだろう。
だが今のコロナ禍を見ていると肉体大事が過ぎるのです。
今考えなければいけないのは、本来、人間の生命とはどういうものなのかということだ。

 

昨日のブログではないですが、健康になるために生まれてきたのだろうか?
そうではないだろう?
この肉体をどうボロボロになるまで使い切るかが、生きるということではなかろうか。
言うまでもないが、使い切るとは運動や筋トレのことを言ってはいない。
「1日1万歩」など、本当にどうでもいいことだ。
聴くだけで呆れてしまうよ。
本来そんなことを気にして生きている場合ではないのです。

自分の人生に、自分の運命に、如何に体当たりをして生きるかということだ。
肉体をフルに使い切るために養生するのです。
養生とは、身体に良いことだけが養生ではありません。
身体に毒となるものも、身体を強くするためには必要悪なのです。
毒を取り込むことも含め、養生なのだ。
養生が大切なのは精神を立てるためです。
肉体のみならず、精神にも毒を取り入れながら、苦悩も力に変えて生きることを言うのだ。

今はどうだ。

ストレスを取り除かれ過ぎた社会というのは、人間をダメにするだけではなかろうか。
ちょっと毒を食らえばすぐに折れる。
何かあればすぐに保証しろ。
自己責任などありゃしない。
逆に責任の擦り付け合いだろ。
そんな場面があまりにも多くはないだろうか。

 

我々は我儘になり過ぎたのだ。

健康病とは深堀すれば我儘病なのです。
現代のストレスの本質は、その我儘にある。

本当に大切なコトを忘れ、どうでもいい知識で頭の中がいっぱいではなかろうか。
今は逃げの健康法ばかりです。
アレ食うなコレ食うな。
アレは良くないコレはいい。
そんな知識でいっぱいだ。
健康病に侵されているのです。
「健康健康」と躍起になるのは、同時に「恐れ」に縛られている証なのです。
アレが怖いコレが怖いと、自分でその怖いものとの遭遇を速めているだけに過ぎないのです。
「健康のためなら死んでも良い。」
そんな感じすら漂っている。

恐怖に居着くな。

 

「恐れ」というのは、歪みの一形態です。
「恐れ」は「居着き」となります。
「歪み」とは、「居着き」です。
居着きとは、読んで字の如く、地面に足がへばりついて動けないことを言います。
そのことを「歪み」と言うのです。

居着かせるのは、「思い込み」が強いからです。
感染したらどうしよう。
感染させたらどうしよう。
消毒しないと感染する。
マスクしないと感染する。
本当にそうですか?
それって単なる思い込みではないですか?
その思い込み、本当に生きる上で必要ですか?
もっと大切な、今考えること、できることがないだろうか。

「今の会社を辞めたい」と言いながら辞めれないのも、解りやすい「居着き」と言えます。
本人は確かに辞めたい。
でも辞めたら、それはそれでいろいろな面倒や不都合も伴います。
「じゃあとりあえず、今のまま居ようか」と、天秤にかけて判断するわけです。
会社を辞めるにも、辞めた後の面倒があります。
経済的な不安が伴うかもしれません。
周囲の目が気になるのかもしれません。
その場に留まることは、慣れている安住の地への安心感が欲しいという側面もあり、変化というストレス、面倒、恐怖を避けたいということでもあるのです。
当然、「動きたいけど動けない」という「居着き」の心理状態が長く続けば、心身を壊します。
現代に鬱症状を訴える人が多いのも頷けます。
選択肢が多い分、葛藤が増えるのです。
余計な情報が多い分、葛藤が増えるのです。
葛藤は身体症状を生み出します。
交感神経優位な状態が長期的に続けば不眠にもなります。
交感神経の過剰が腰痛という形で現れることもあれば、肩こりとして出ることもある。
人によっては胃痛や頭痛として出るかもしれません。
恐怖という居着かせるものが、病を引き起こすのです。
私の胃痛や動悸だって、居着きの顕在化なのです。

生きるとはなんだろうか。
何故生まれたのだろう。
何故、人間が存在するのだろう。
何故、私は存在するのだろうか。
何が私なのだろう。

イチイチなんだかよくわからない情報に振り回されるために存在しているわけではないだろう。

整体することが私である。
整態することが私である。

だったらそのように生きれば善い。

P.S.
選択肢が多いことが悪いわけではない。
情報が溢れていることも悪いことではない。
自分がそれらとどう対峙するかが問われております。

今日は天風先生に力を頂いた。

天風先生の書は優しい。
優しいが実際の声を聴くと、その威厳が伝わってくる。
書いてあることは解りやすいが、本当にやるとなったらやっぱり忍耐が必要です。

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toru-imizu

関節エステプロフェッショナルアカデミー代表の射水徹です。

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