一体なぜ、生を授かったのだろうか。
リモートワーク中の方が、「抜けてきちゃいました」といらっしゃいました。
「もうはやく会社に行きたいです」と言っていた。
「あれ~?いつも会社ヤダヤダいってたじゃん。願い叶ってるじゃん。」
「もう家に居たくないです。」
「良かったね。会社で仕事できるって当たり前じゃないことがわかったね。」
「はぁ~」って最後は溜息でしたけど(笑)
ちょっとイジメちゃいました。
「あー、仕事やだ。」
「あー、会社いきたくない。」
これが口癖になっている人にとっては、その願いがある意味コロナを通じて叶っている現実がある。
散々「仕事ヤダヤダ」言っていた人に限って、「経済がヤバイ」とか突然言い出したりもする。
テレビをつければそれっぽい人がそれっぽい顔して、「ヤバイヤバイ」と言っているのだから、皆そう言い出すのは当然だろうけども。
仕事ってなんでしょう。
生きるため。
お金のため。
趣味を盛り上げるための前菜。
誰かにとってはそれもそうなのだろうけど、私は断固違うと答える(今では(-“-))。
そうではない。
本当にそれだけのための仕事だとしたら、一体なぜ生を授かったのだろうか。
「お金のため」に生を授かったのだろうか?
「生きるため」はもっともらしいが、今日の帰り道に突然車が突っ込んできて命を落とすこともある。
そう考えてみると、「生きるため」、「お金のため」の仕事という考え方が、少々ズレていることに気づきはしないだろうか。
今は給与や休暇など、待遇で会社を選ぶ人も多い(そういう私も大学時代、バイトは自給で選んでいたがm(__)m)。
そもそものズレがそこから始まるように感じる。
以前、「うちの子が、『給料がいいから医者になりたい』と言っている」と、医学部を目指している親子がいた。
もし本当にその子が医者になったとしても、自分がその子に命を預けたいか?
医学部を考えるくらいだから、頭は良いのだろうけども(残念なことに私、医学部など1ミリたりとも脳裏をかすめたことがございませんm(__)m)。
親父が膵臓癌で抗がん剤を医師にすすめられた際、私も一緒に話を聞いていた。
親父の膵臓癌はステージ4だった。
「痛みがあるとは言え、親父は今これだけ元気に動けていて、いま抗がん剤をやる必要がありますか?」と質問した時、サラッと「トレンドですからね」と答えられた。
心の中でブチっと音がした後、先生の顔を見れなくなった。
「流行で命を扱うな。」
親父は温厚な人だからきっとなんとも思っていなかっただろうけど。
親父は「俺は抗がん剤はやらない」と自分で選択した。
Dr.トレンドは、きっと頭は良いのだろう。
でも私は、頭の良い馬鹿が一番嫌いだ。
頭が良いだけの医師に命を預けるくらいなら、自然に死のう。
その時、そう感じたことを、いま思い出した。
給与や休暇が悪いわけではないが、軸にするほどのことではない。
ドラフト4位と5位あたりで良いのでは?
そんなものはオマケと考え、ご縁あり、与えられた仕事に精を出すのが丁度良いと思っている(22歳の時、ご縁あり内定を頂いた会社に、内定式まで出ておいて入社をやめた恥知らずの恩知らずは私のことだm(__)m)。
実家がある人ならば、働かなくても転がり込めば生きるだけなら余裕で生きられる。
生きるだけなら、公園で生きている人もいる。
五反田には有名な「ガード下の住人」がいる。
今年の真冬も乗り越えた様子だ。
ジャンプを靴にして歩いている時もある。
憧れはしないが、たくましい。
なぜ、生を授かったのだろうか。
誰もが全員、「最後には死ぬ」のに。
誰もが一回性を生きている。
では「なぜ、人は死ぬのだろう」と逆を考えてみる。
死ぬのは嫌だと言うけれど、もし「死が存在しなかったら」どうだろうか?
もし死がなかったら、どう生きれば良いのだろうか。
とたんにわからなくなる。
死ねなかったら、どうします?(-“-)?
あのフリーザ様は永遠の命を欲したが、本当に手にしたら「生きる価値」はどこにあるのだろうか。
そんなことを考えていると、日本においては、仕事が神に通ずる道なのではないかと思う。
本来。
今は本来人間にとって道具であるハズの科学が、神のように崇められてしまっているアベコベジャパンになってしまっているが。
事に仕える。
事に仕えることが、「神に仕える」という事に繋がるのではないか。
多神教である日本において、仕事に誠心誠意仕えることこそ、「神」に仕える唯一の「道」だと思う。
必死こいて仕事することが、誰かの力にもなり得る。
もしかしたら、誰のためにもならないかもしれない。
ただ、それでも自分が信ずる仕事に命を燃やし尽くすことだけが、生きる上で必要なことに感じる。
私はどこの宗教にも属していないが、「信ずるもの」は持っている(と勘違いレベルのことはしている)。
「たったひとつを信じ抜けぬ者は、不幸者である。」 ウォーレン・キッドマン
信ずるコトは、正誤ではない。
信ずるコトは、好き嫌いではない。
信ずるコトは、善悪ではない。
信ずることは、苦行を伴う。
信じ続けることは酷く難しい。
それでも信じ抜く。
「夫が、妻が、浮気しているかもしれない。」
それでも信じ抜く。
そこでスマホを覗き見る者は、不幸者なのだ。
ウォーレン・キッドマンが言うように、信じ抜ける者はそれだけで幸福なのだ。
今回のコロナはいろいろと考えさせてくれる。
生と死もそう。
仕事もそう。
人付き合いもそう。
今朝、「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?/コロナパニックについて考える」という記事を偶然読んだ。
森田洋之さんという医師の記事でした。
そこには、「死」について語られていた。
「今こそ、精神を立てるために仕事に尽くそう。」
朝からそんな熱い気持ちが込み上げ、すぐに香織先生にシェアした。
朝っぱらから「なんだ??」と思われたに違いないが、きっとこれから関節エステはまだまだ熱いアカデミーになっていく。
エステ業界イチ、ド熱いアカデミーになる。
P.S.
「ウォーレン・キッドマン」を検索しても、多分なにも出てこない。
架空の人物だからだ。
それっぽいことを言って、カタカナを名乗ると、我々日本人はコロッと信じる。
そのことを、ワタナベアニ氏の著書で知り、真似してみたくなってやってみた。
この「ロバートツルッパゲとの対話」は、奥さんもゲラゲラ笑って読んでおりました。面白い。
【写真はドクスメの小川さんのブログより拝借しました。https://ameblo.jp/dokusumei/entry-12571993330.html】
信じてくれた?
カタカナに弱いとか、なんかダサイですよね。m(__)m
ロックダウンとか、プラズマクラスターとか、オーバーヘッドシュートとか、すぐにカタカナを使うが、全部日本語で言えば良いのにね。
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