しゃがめない人が多いですね。
今日の昼は、マスタークラスのレジュメ写真撮りでした。
撮影に手伝ってくれた女性が、脚を閉じるとしゃがめませんでした。
平成になり(もっと前からだと思いますが)、失われた身体性のひとつが「しゃがむ」です。
昔は誰もが当たり前にしゃがめたと言います。
生活の中に「しゃがむ」があったからです。
僕が子供の頃は、伯父の家が和式トイレでした。
小学校も和式だったから、そういう意味ではギリギリしゃがむ機会がありました。
公園でも砂場遊びでさんざんしゃがむでしょ。
今ってしゃがむ機会自体、そうそうないでしょう?
だって今日、しゃがみましたか?
サンケイリビングさんで講習会した時も、半数はしゃがめませんでした。
後ろに引っ繰り返ってしまう。
生活の中でしゃがむ必要性がなくなりました。
必要性のない能力は、備わらないのです。
「しゃがめない身体が普通の身体」になりつつあるのです。
ちなみに、さきほど治療を受けに来たシンゴ氏は、「便座の上にしゃがんで用を足す」というツワモノである。
潔癖とかそういうことではないとのこと。
ただ単に、「その方がしやすい」のだそうだ。
でもさぁ。
折角の便座にしゃがむって(笑)
そこは素直に座ろうよ。
シンゴ氏が帰った後、どんな気分なのか体勢はとってみたものの、どう考えても「外す」自信がある。
僕にはそのコントロールスキルはないですね。
最近、あえて正坐をしています。
家では1日1回、とりあえず正坐をして何かをしてみる。
歯を磨いたり、お茶を飲んだり。
正坐も失われつつある身体性のひとつです。
「椅子に座りなさい!脚が短くなるわよ!」と、子にしつけているお母さんも多いでしょう。
僕はヨーガで膝を折ることがあるので、正坐もまだできる方だとは思いますが、足の組み方次第で、痛い場合とそうでない場合とあります。
でも、さきほど待合室の固い床で、裸足になり正坐してみたら、しびれは出ませんでしたが、5分後には立ち上がる時に足首が「イタタタタ」となりました。
正坐が当たり前に生活の中にある人は、一日中でも正坐で過ごせると言いますから、5分とはなかなか情けない。(__)
この「イタタタタ」も大事な感覚です。
そこに感覚があったことを思い出させてくれるのです。
椅子に座っていたら、せいぜいお尻に体重が乗る感覚までで、脚の感覚って置き去りになっているでしょう。
「イタタタタ」も「シビレ」も、普段置き去りにされている部分の感覚を呼び覚ましてくれているのだ。
「僕の存在に気づいてくれよ」とな。
裸足での正坐と、靴下をはいての正坐では、感覚も違います。
靴下をはいたとたん、痛みが激減します。
靴下って、すごいですね。
少し捻くれて考えると、靴下のおかげで、感覚を無に近づけて生活しているとも言えます。
僕は、「冷え症」は「つくられた病」だと思っています。
僕の足はけっこう冷たいですが、「だからなんだ」と思っています。
僕にはそういうひねくれたところがあります。
もちろん、家ではいつも裸足です。
寝る時も靴下をはいては、気持ちが悪い。
冷たいけど、特に気に留めない。
多くの人は、家でも靴下をはいて過ごすでしょう。
靴下のおかげで、不快を感じることがなくなったということです。
感覚を無にしている。
「冷たい」も感覚ですから、たまには裸足になってその冷たさを感じてみるのも良いのです。
では、足先が冷たい人はどうすれば良いかって?
裸足になって、正坐でもしてみなさい。
当たり前ですが、してないことはできないのです。
する必要性があって初めてできるようになる。
しゃがめないのだったら、まずは「しゃがんでみる」ことから始まります。
正坐ができないのだったら、まずは「正坐をしてみる」ことから始まります。
自転車乗れないんだったら、まずは「自転車にのろうとしてみる」ことから始まりますよね。
泳げないんだったら、まずは「泳ごうとしてみる」ことから始まりますよね。
それと一緒です。
今まで一切使わなかった機能が、いきなり備わると思いますか?
まずはしようとしてみることから、始まります。
P.S.
便座でしゃがんで外さないスキルも、おそらく備わるのだろう。
身体はいつからでも、目覚めます。
P.S.2
足先が冷たかったら、裸足で正坐か蓮華坐で、温まる。
やらずに「できない」言うなかれ。
P.S.3
人生初の、ヤンキー坐りでした(-“-)