草舟言行録Ⅰ「日本の美学」が届きました。

日常

心と体は善く死ぬための道具である。

人間て何だろうか?

昔はからだのことを、體と書いた。
「骨が豊」と書いて「からだ」と読んだ。
骨が豊かな感覚こそ、日本人のからだだったのだ。
現代のからだは、体だ。
これは「死体」を意味している。
江戸時代の初期に書かれた日葡辞書には、からだの定義として「死体。時には生きた身体の意にも用いられる。卑語」とある。
「人の本」が「体」ということだが、人の本とは何だろうか。
からだの語源は「殻だ」と言われるように、空っぽなのだ。
「人の本」は「殻」であり、それだけでは生きていないことになる。
人の本は死体なのだ。
これは肉体のことを意味する。
肉体という物質だけでは生きられない。
殻だからだ。
正確には、「人間としては生きられない」ということだ。
現代の「体」だとしても、動物としてなら生きられる。

では、人間とは心なのかというとそれも違う。
「心の時代」と言われて久しいが、私はそうは思わない。
「心が大切だ」という意味で、「心の時代」と言っているのだろうけれども。
「心と体が大切だ」と言うキャッチも一時よく聞いた。
言いたいことは解るが、その言葉自体がどうも軽く感じる。
その大切さを強調し過ぎ、行き過ぎてしまったのが、肉体を大事にし過ぎる現代の病なのだ。
たしかに大切には違いない。
だが、人間にとって心も体も本来は道具なのだということを忘れてはならない。
道具なのだから大切にするのは当たり前のことだ。
包丁が錆びたらどうするか。
包丁を研ぎ、錆を取り除くだろう。
そうやって道具を大切にし、活用しながら人間は生きていくのだ。
道具を大事にし過ぎる人は、道具を活用できない。
物も使えば壊れていく。
それを補修しながら大切に使っていくことが物への愛情でもある。
使わなければ道具の存在意義はないのだ。

道具はよりよく生きるために活かすものだ。
誰が活かすのか。
私(人間)が活かすのだ。
心や肉体といった道具も、時にボロボロになりながらも、私が最期の時まで活かすのだ。
じゃあ、活かしている私(人間)の正体って、何?

心や体が私ではないということは確かだ。
私の道具なだけである。
からだという言葉がなかった時代、からだのことは「み(身)」と言っていた。
「身」とは「実」であり、中身の詰まった「殻」が「身」だった。
殻に何が詰まっているのか。
命であり魂だ。

今ではこういう話は伝わらない人にはまず伝わらいのだろうけれども。
身体は日々酸化していく。
今はこの酸化(老い)を忌み嫌うが、生は酸化の過程なのだ。
現代の美しいとされる美は、時に醜態とすら感じることもある。

今は健康健康と健康を気にし過ぎて健康病に侵されている人が多い。
肉体大事が行き過ぎたら、何もできない。
無難に生きて、無難に死ぬしかない。
でもどうして人間が存在するのか。
無難に生きて無難に死ぬために我々の存在意義があるのだろうか?

道具を最大限使い切って、ボロボロになって死にたい。
それが人間として最も美しい死であると思う。

P.S.
執行先生の「日本の美学」が届きました。
まだ冒頭しか読めていないのですが。
冒頭の「生命はボロボロになる存在」を読んだらそれだけで熱くなるものを感じました。
凄い本です。

私には何もない。私には価値がない。その私の言行録がシリーズとして出版されるという。この意味が分かれば、現代の問題の多くが氷解されて行くように思われる。価値のない人間の価値を求める時代が来たのかもしれない。現代人は多くの価値を求め過ぎたのではないか。私にはそう思えてならない。多くの意見と多くの価値に、多くの人々が押し潰されようとしているのではないか。【「草舟言行録」刊行にあたって】3頁より抜粋


【表紙がいつもカッコイイ】


いつも通り、3冊購入。

多くの人に読んでもらいたい良書です。
これもご縁だろう。
届く人にしか届かないのが良書です。

セミナー情報など配信しています。
お友達登録宜しくお願い致します。
友だち追加

 

 

 

toru-imizu

関節エステプロフェッショナルアカデミー代表の射水徹です。

関連記事