花谷先生の「治療の礼節」オンラインセミナーを受講しました。

日常

礼を欠く施術など、ストレスでしかない。

昨日は花谷先生の「治療の礼節」オンラインセミナーでした。
受講条件はカメラON、寝巻き、寝ぐせ状態、横柄な態度での受講禁止。
おっしゃる通りで、「礼節」を学ぶということはそういうことなのだ。
この条件すらクリアできない者も、必ず一人二人はいるモノです。
私もセミナーを開催していて毎月感じます。

呼びかけてもカメラをONにしない。
相モデル用意と注意書きにあっても、用意しない。
セラピスト同士の受講禁止と言っても、セラピスト同士で受講している。

「カメラが付いておりません」という言い訳など、問題外だと本人気づいていないのです。
そういう人は昔でいう「おまめ」キャラから抜け出ていないのです。
「おまめ」って言わないのかな。
子供の頃、姉たちの上世代と鬼ごっこをする時、幼稚園児だった私は「徹はおまめね!」と言われた。タッチされても一生鬼にならない(なれない)ある種の無敵キャラだったのであります。ある時まではその「ツマラナさ」に気づけないのだが、ある時から、「これってメチャクチャツマラナイ」と気づく。それを成長と言う。

偉そうに言うが、私自身が礼節を欠く人間でありました。
2014年、花谷先生の治療院へ技術指導を受けに行く際、治療着を持って行かずデニムで行った。

「お前その恰好でやるつもりじゃないよな。」

そこで恥ずかしいことをしている自分に気づかされたのであります。

私など、こんなどうしようもないレベルです。
2014年はその後も深くご指導頂き、私にとって大きな転換期となったことは言うまでもない。
生き恥体験があったからこそ、今があると感じるのです。
その今も、「どうなの?」と問われたら、答えに窮するのでありますが。

礼節とは治療のみならず、生きる上での根底を為すものだと思います。
本来、何故「礼」があるかと言えば、ストレスなく生きるためなのです。
とことん突き詰めれば、「礼」に欠くからストレスが多い人生となるのだ。
礼の欠如が混乱を招くのです。
今やストレスは「甘え」となった。
「ストレスが」と言えば許される「甘えの時代」だという認識も、我々には必要なのだと感じます。
本来、ストレスなどあって当たり前のものなのだ。
そのストレスをどう受けながら人生を生き抜くのかが問題なのであって、ストレスを無く生きることが人生なのではないと言うことです。
ストレスから逃げるなど問題外で、逃げるからまたそれもストレスなのです。
礼を欠けばストレスが増える。
代表的な礼の教科書が、孔子の論語だ。
孔子が生まれた時代の中国は乱れに乱れていた。
それを「礼が失われた」からだとして礼の研究を重ねたのが孔子なのだ。

セミナー冒頭の「礼節を学ぶのにこんなこともできないようでは何も得るものもない」という趣のお話で、オンライン上に映る全員が姿勢を正したのであります。

治療の礼節を言語化すること自体がもの凄いことなのです。
セミナーを聴いていてあらためて実感しております。
レジュメにレベル1と表された内容でさえ、いまだに意識して取り組んでいる点ばかりです。
レベル2となると、意識しなければ抜け落ちることばかり。
先生のおっしゃる通りで、数名なら「そのモード」で行けたとしても、疲労と共に雑になっている自分に気づくことがあります。
疲労している時ほど余計な手数が増える。
そのたびに、「タッチを少なく」と念じてから施術に入るのですが、なかなかです。

私自身がこうしてセミナーを開催させて頂く身となりましたが、受講生に指導する際の根底にあるもの、また自分が取り組んでいて「比較的身に着いてきたかな」と思うことのすべてが、過去から今日まで花谷先生からご指導頂いたことばかりなのです。
そのことにあらためて畏怖の念を抱きました。

繰り返し繰り返しご指導頂いていても、いまだに完全インストールされておらず。
今日新たに気づいた点も今日からの治療課題として取り組みます。
まだまだ治療家としての階段を上れそうな気がする1日のスタートとなりました。
どうせ死ぬまでやる仕事なのだから、まだまだ上達したい。

いつもご指導頂き、ありがとうございます。

P.S.
明日は合同マスタークラスです。
3年ぶりの開催です。
暗い世の中を明日のメンバーで切り裂くのだ。

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toru-imizu

関節エステプロフェッショナルアカデミー代表の射水徹です。

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