自己固有の人生を生きてこそ、自己の死を死ねるのだ。

日常

自己固有の人生のエリートであれ。

あらゆる情報は演出であると、この数年の出来事を通じて理解してきた。

【「イッツ メディア」と題される、有名な風刺画ですね。世の中というのは、本当にこの通りかと。】

この国において、テレビ情報などこんなものばかりです。
今回のNHK然り。
いくらでもやりたいようにやってきますから。

 

それでもいまだに気づかぬ「ウマシカ」もいる。
あまり言いたくはないが…m(__)mもうここまで来たらそうだろう?(T_T)?

以前のブログにも書きましたが、日本の報道自由度は今や世界の72位から71位に上昇したところである。

要は、ロクな情報が流れていないということだ。
国民に伝えるべき本当に大切な情報はトコトン伏せ、あとはスポーツと食とバラエティーだ。
権力者からすれば、国民は「馬鹿」であるに越したことはない。
国民に、「自己」など持たれたら堪ったものではないと思っている。
ただそれは権力者のみならず…
国民ひとりひとりも、「『自己』など持ちたくない」と思っているのが実際のようだ。

世間の人は、自己というようなもので大騒ぎなどしない。
何故かというに、自己などというものは、世間では一番問題にされないものであり、それを持っていることに気づかされるのが何よりも危険だというようなものだからである。
自己自身を失うという最大の危険が、世間では、まるでなんでもないことのように、いとも平静におこなわれているのである。
これほど平静におこなわれる喪失はない。
ほかのものなら、一本の腕であれ、一本の足であれ、5リグスダーラーであれ、妻であれ、そのほかなにを失っても、すぐ気づくくせに。
【中略】
あえて自己自身を信じようとせず、自己自身であろうなどとは大それたことで、他の人々と同じようにしている方が、猿真似をしている方が、数のひとつとなって群集の中にまじっている方が、はるかに気楽で安全だと思ってしまうのである。

1849年のキルケゴールの著書「死に至る病」に、このように書かれているのだ。
まさに、今現在の日本人のことのように感じる。

無意識にも、「自己」などというものには気づきたくもないのだろう。
そんなことよりも、何でもかんでもお国が生き方を決めてくれ、なんでもかんでも保障してくれるような人生を求めているように感じる。
本当にそれが人間と呼べるのだろうか。
一体、何故、我々はこの世に生を受けたのだろうか。
いまこそ、そこを問いたい。

 

とにかく国は、国のことに無関心でいて欲しい。
スポーツと芸能とSEXに興味を持たせ、「サル化した人間」でいて欲しいのが権力者の気持ちです。

有名なトルーマン大統領の言葉です。

アメリカの気持ちが、今の日本政府の気持ちです。

いつまで、このまま「サル」を続けるのか。

 

平和とは二つの戦争の時期の間に介在する騙し合いの時期

現代はこの「騙し合いの時期しかない」のが実際です。
騙し合いの中に戦争が常にある。
爆弾が落ちてこなくとも、非軍事的手段によって常時戦争中なのが今だ。

そのことを国民ひとりひとりが理解しない限り、この国はもう事実上外国になりますね(というか既になっていますよね…)。
行くところまで行かない限り(堕ちるところまで堕ちない限り)は無理なところまで来ており、知らぬ間に、表っ面の平和に騙され、偽りの幸せの中で日本は吞まれ続けていくことだろうな。
こうなると、気づかぬ方がある意味幸せなのかもしれないが、気づいた上で自分がどう生きるかを決めることが、本当の自分だけの人生を創るのではなかろうか。
自己とは半分は環境なのだ。
私は日本人なのだから、日本を知らねばならない。

その上で、自己固有の人生を生きてこそ、自己の死を死ねるのだ。

私はそう思う。

P.S.
自己固有の人生を大衆のように他人に任せるな。
自己固有の人生のエリートであれ。

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toru-imizu

関節エステプロフェッショナルアカデミー代表の射水徹です。

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