自分は途轍もなくしょうもない人間だと理解して、ようやく人生のスタートだ。

日常

胸の痞えが下りた日。

昨夜は花谷先生との電話コンサルの日でした。
この2~3週間、ここには書けない様々なドタバタがありました。
話を聞いて頂くことで、胸の痞えが下りたように思います。

治療院経営勉強会のアーカイブ受講も。
昭和の男と平成の男。
やっぱり私は昭和だな。

 

今は褒められ過ぎているのだと思う。
褒められることに慣れ過ぎなのだ。
アレ食ったコレ食ったをアップすれば、「いいね」がもらえる軟な時代だ。
そんなことに慣れてしまえば、ちょっとしたコトに打たれ弱くなるのも仕方がないように感じる。
承認欲求が過ぎるのが、現代だろう。
だから本当の事など書けない。
本当のことなど書けば批判しか来ないのが普通だ。
基本、「生まれて来てくれてありがとう」「君は何でもできる」「人生は君の思い通りになる」「君は素晴らしい人間だ」などと言われて育てられている。
生まれてきた瞬間から、「君は価値ある人間だ」と植え付けられているのだ。
確かにそうかもしれない。
でも、それだけでもない。
一見良いようで、非常に危ういものを同時に秘めているように感じるのであります。
言ってしまえば、我々は生まれて数年は記憶がない。
それでも今こうして生きている。
ということは、一人ではまったくもって生きられない数年を、必ず誰かの世話になっているという事実がある。
何ひとつ何もできず、生きることもままならない数年を生かして頂いて、「今がある」ということなのだ。
その数年を「だから価値がない」とは言わないが、そういうことを抜きに、「生まれただけで価値がある」と勘違いしてはならない。
だって、生まれただけなら動物と変わりないだろ。
動物と人間の違いって何?

 

治療院でも、親が子にやけに気を遣っている姿を見ると、なんとも言えない気持ちになることがある。
今は子に嫌われたくない親が非常に多いように感じるのです。
子に好かれたくてしょうがない。
故に、注意もしない。
射水には子がいないからそんなことが言えるのだと言われてしまったら、それ以上何も返す言葉もないのだが。
この人も、2分18秒の辺りで言っております。
https://youtu.be/ZeAWyNbmbUM
「怒ったら嫌われちゃうじゃないですか。」

要は、思っているのは「自分のこと」じゃないですか。
本当の親子関係ができていない家族が今は多いのだと、私は思う。
これは間違いないと思っている。
それは私自身にも言えることだと認識しており、「俺は随分と甘やかされてきたな」と思うのだ。
子供の頃はそんなことは当然思わなかったが、今になって強烈に思う。
「うちの親、俺に甘過ぎだっただろ」と。
「そりゃあ、ヘッポコになるわ」と。m(_ _;)m
ただしそのヘッポコさは、親のせいでは断じてない。
恥ずかしながら、私自身がそれに甘んじてきただけのことなのだ。
そういうことに気づくのも、若い頃の出会いひとつだと思う。

あとは、まっとうな不安を感じれるのか。
生きることは、同時に不安を抱えることでもある。
不安があることは決して悪いことではない。
「俺ってなんかズレてるのかな?」という不安や、「このままだとなんかマズイ気がする」という枯渇感とか。
今は生命としての不安が少ないのではないだろうか。
やたらと老後の心配ばかりしている人は多いが、そういう現世的なものと、生命的な不安とはまったくの別物と思っている。
今は「ただ一生をやり過ごすためだけの不安」ばかりになっているのでは?
そんなのはうわべっ面のクダラナイ不安ですから、悩んでいる内に入らないと思う。
でもそういうことも、今ではあまり通じないような気がする。

矛盾するようだが、私が子供の頃は悪いことをすると、よく母親にベランダに放り出された。
よく怒鳴られたし、頭を冷やせと家から閉め出された。
子供にとってはそれが恐怖で家具にシガミついてベランダ行きを免れようとするのだが、最終的には家の中に入れなくなる。
私はドアをガンガン叩いて大号泣ですから。
ご近所さんからすると、「あー、また射水さんとこの子ね」という感じだっただろう。
令和である現在だったら、すぐに警察が飛んで来るのだろうなと思う。
「虐待だ」とか、通報されて(笑)
「遊び」のない、生きづらい世の中だ。
それだけ、近所づきあいが消えたということです。
当時は雨が降ると、お隣さんから、「射水さん、雨よ~!洗濯物濡れるわよ~」と聞こえてきた。
互いのベランダ間で会話があったのも懐かしい。
洗濯物を取り込みながら、「こんにちは」と挨拶をしていた。
隣近所のおじさんおばさんにも良く叱られた。
ある意味、近隣の方々全体で育てられていたようにも思う。
だから「虐待だ」とならなかった。
むしろ、「また射水さんとこのお子さんが何か悪いことしたのね」くらいだっただろう。
まだ隣近所の顔が見えていた時代だ。
今は隣近所をまったく知らないのが普通となった。
それでいて、SNS上のまったく知らない人とは繋がっていたりする。
目の前で起きていることよりも、スマホから流れる映像がリアルだと勘違いするようになった。
リアルとアンリアルの区別がつかなくなったのが、現代だと言えます。
アンリアルなものに憧れ、アンリアルなものがカッコイイという時代です。
アンリアルがリアルでないことを自覚した時、人によっては「こんなハズではない」と心が折れるのかもしれない。
便利な世の中のようで、繋がりが希薄なのもよく解るのではないだろうか。

 

過去を生きた人物や、古典、執行氏の書籍を通じて、如何に自分が甘やかされてきたかを認識することとなった。
それは今もなお、日々読書を通じて、自分で襟を正すしかない。
また、そういう場を自ら求めることでしか得られない。
修身とはそういうことだと思います。
修身どころか、すでに仕上がった気になっている人間が、今は多いのだと感じる。
特に日本は危ういと思っている。
利口が増えた。
それが怖い。
今は書籍からしか、本当のことは学べない。
でも本屋もどんどん消えている。
本屋も「売れる情報」ばかりが平積みとなっている。
中毒本ばかりで、良書はかなり少ないと思っている。
良書に触れなければ、なかなか情感も育たない。
インスタやFacebookを毎日眺めていても、それは無理だろうなと思う。

 

「自分は途轍もなくしょうもない人間だと理解して、ようやく人生のスタートだ。」

以前、執行社長にそのような趣の言葉を有り難くも頂いた。

「自分は大した人間だ」と思っている奴は、本当にただの馬鹿なのだと理解した。

なんともまとまりのない内容になったが、感じることを書いた。
最近、私の頭の中もどうも整理ができていないのでご了承下さい。
伝わらなければ、それはそれでいい。

 

P.S.
第6期マスタークラスも1週間を切りました。
昨日も動画を一本投げました。
ここから加速していきましょう。

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toru-imizu

関節エステプロフェッショナルアカデミー代表の射水徹です。

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