自分とは一体、なんだろう。

日常

いまこそ死を、想う時。

「先生はコロナを寄せ付けなそうね。」

今日だけで、4名から言って頂いた。
以前にもそんなことを言って頂きました。
意外と、嬉しい。
今日のマスターメンバーからのメールにも、「先生にはなんだか新型コロナをはねのけそうな生命観を感じます」と書かれていました。
正直、「どの辺が?」と思いますが、褒められているのでそのまま受け入れよう。
嬉しいですしね。

たぶんですが、水風呂とか、断食とか、変なことばかりしているからですかね?(-_-;)?

「なんか、この中は大丈夫な気がしますね。」

夜の施術中にも言って頂けた。
そんな安心感を、今後も提供できたら最高です。

 

私が不思議な安心を感じたのは、2016年はじめてインドのヒマラヤへ行った時です。

ヨーガの成瀬雅春先生が主宰の旅で行ったのですが、「成瀬先生がいるから大丈夫だろう」という安心感が常にありました。
バスで断崖絶壁の道を進むのですが、以前はよく転落事故があったそうです。

「随分と道が良くなってツマラナイ。」

先生はそうおっしゃっておりましたが、だいぶお尻がバウンバウン撥ねておりました。
日本にはまずない。
崖っぷちな所もインド人ドライバーは意に介す様子もなくハイスピードで進みます。
メチャクチャ運転が上手すぎる。
もし、私が運転したら、10秒後には崖の下です。

4000m地点のゴームクへ、歩いて向かう途中も、土砂災害は普通に起こるそうで。

私が行った時の数年前の旅では、土砂崩れで道が分断されてしまい、中止になったようです。

インドでは、「成瀬先生がいるから大丈夫だろう」という不思議な安心感を、常に感じていました。
「そんな風になりたいなぁ」と、今日ふと思いました。
成瀬先生が発している気が優しいからなのか、ヒマラヤでは先生の近くにいつも鳥が飛んで来ておりました。
きっとそういうこともすべて含めてなのだろうと感じます。

昨日のブログにも書きましたが、「人間が一番最後」ということも、先生の書を読むまでは考えもしなかった視点です。

人間は万物の霊長だ、という驕った考え方が逆に「知性のなさ」を表しています。【時間と空間、物質を超える生き方(195頁より抜粋)】

本当に、優しい。
先生の本はいろいろな思い込みを取っ払ってくれます。

 

気を悪くしないで欲しいのだが。
今は「死を見つめる機会」を得ているのではないでしょうか。
「何にそんなに恐怖を感じているのか」と言えば、「死ぬのが怖いと思っているから」に行きつく。

ならば、どうして死が怖いのか?

成瀬先生は、「死ぬのが今から楽しみだ」と、昔から言っている方です。
「たった一度の死の瞬間がどんなものなのか、今から楽しみで仕方がない」と、トークライブでもお話し頂いたことがある。
どうしてそういう風に考えられるようになったのだろうか。
「死の瞬間が楽しみ」とは、著書にも書かれております。
頭ではわかっているようで、今本当に死ぬのだとしたら、どうだろうか。

「今の人にはどう死のうかという視点がまったくないから、どう生きればいいかがわからない。死に方が決まれば、生き方が決まる。順番が逆なのだ。」

そのような趣きのことが執行草舟先生の著書にも書かれているのですが、死を見つめることは決して怖いことでも、悪いことでもない。
むしろ、それをしないで生きるということは、生きていないということと同義になってしまうことになる。
執行先生もまったく同じことをおっしゃっていました。
「俺はいつ死んだっていいと思って昔から生きているんだ。なのにこれがまたなかなか死ねないから格好がつかない」と。
死を恐れている様子は微塵もありません。

 

ヨーガは自分を見つめること、自分を知るためのことです。
成瀬先生からそう教えて頂いた。
つまりは、「自分の死を見つめる」ということに繋がるのではないでしょうか。

「死についてどう思う?」

先生が問われたことがあります。

どう答えますか?

 

いまこそ、「自分を知る」ということを、「愉しんで」生きたいと思っている。

自分てなんだろう?
死とはなんだろう?

自分の言葉で語れるように。

P.S.
愉しむとは、辛いことも苦しいことも嫌なことも楽しいことも、すべてをひっくるめて、愉しむなのだと教えて頂いた。
「自分を知る」とは、死ぬ瞬間まで続く道程ですね。

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toru-imizu

関節エステプロフェッショナルアカデミー代表の射水徹です。

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