不合理を咀嚼し、悔しさに涙しながら次に向かって立ち上がるのが人間だ。

日常

100%の不合理から、一滴の喜びが生じる。

ツイッターで見つけたこの動画がとても面白い。

これやってみたいなぁ。
この方のリアクションがとても面白い。
もしかすると演技なのかもしれませんから、試してみたいですよね。

脳は簡単に騙されるということです。
勝手に自分で洗脳してしまう。
良くも悪くも、脳の持つ力です。

通っている方の、小学校低学年の子が、「肩凝った」「疲れた」と言い出したらしい。
これは、普段から親が、「あ~肩凝った」「あ~疲れた~」と繰り返し言っているからです。

「あー、それ〇〇さんが年がら年中家の中で唱えているからだよ。」

「あ、なるほど…(笑)」

子供の頃って「疲れる」という感覚すらない。
単純に走り回って遊び、散々遊んで遊んで遊びまくって、いつの間に寝ている。
そこに「疲れた」も何もない。
寝そうになっている子を見て、「あら、いい加減疲れたのね」と表現するのはあくまで「大人の感覚の都合」であって、子供は「疲れた」とは思っちゃいない。
単に眠くなったのだ。
もし、「そんなに走り回ってると疲れるわよ!」と親から注意をされ続けていれば、「そうか、これが『疲れる』ということなのか」とその身体感覚を「疲れ」として認識するようになる。

親が「腰痛い」「肩凝った」と、しょっちゅう言っている家庭は注意ですね。
子供もそうなります。
一種の洗脳みたいなものです。

洗脳と言うと聞こえが悪いですが、多かれ少なかれ、我々は洗脳されている。
そう思って世の中を眺めてみることだ。
いま起きている戦争だって、騙し合いです。
洗脳合戦ですから。

 

多くの人がしているマスクも、言ってしまえば洗脳ゆえ。

「顔を出すのが恥ずかしい。」
「今後もマスクを外したくない。」

そんな大人が増え過ぎてしまった。
今やウイルスを恐れてマスクしている人は、どれくらいいるのだろうか。
「外していいよ」と言われても、ほとんどの人が外せないだろう。
「外してもいいよ」が、かえって有難迷惑になりつつある世の中。
もちろん、「個人のお好きにどうぞ」なのですが、この暑い中99%の人がしているのを見ると、「洗脳って簡単なんだな」と思います。
ほとんどテレビの影響なわけです。
昔から五反田駅の高架下に住んでる有名なオッチャンがいるのですが、この2年マスクなどしているところを見たことがない。
しかし、元気に生きている。
オッチャンからすると、「何をそんなにマスクしているのかね?」という感じだろう(新聞は見ているだろうから、意外に詳しかったりするのだろうか)。

「最近はもう外ではマスクを外してます」と言ったら、「えッ!?先生、自分に自信があるんですね!!」と言われた。

曰く、やはり「今さら顔を出すのが恥ずかしい」のだそうだ。

 

洗脳は言い換えれば「思い込み」です。

「〇〇した方が良い」はすべて思い込みと思って間違いない。
「〇〇した方が良い」は、まったくしなくても困らないことだからだ。

余計な知識が邪魔をしているとも言える。
情報が錯綜することで、「頭の良い人」が増えた。
お利口さんが増えたのだ。
その頭の良さが、かえって身体を馬鹿にしているように感じることがある。
身体は求めていないが、頭で考えて身体の要求に反することばかりをしている。
いつしかそれが、当たり前となる。
お利口さん故、一度当たり前になればそこから一歩出るのが大変だ。
その勇気がない。
その頭の良さが、不合理を受け入れ難くしているとも言える。
「合理的なことが善」という思い込みが身体を強く縛り付けているように感じるのだ。
本来人間が生きるということは、不合理を受け容れることである。
不合理を咀嚼し、時に悔しさに涙しながら次に向かって立ち上がるのが人間だ。
仕事など本来不合理しかないのだ。
100%の不合理から、一滴の喜びが生じるのであって、100%の合理性を求めるから、かえって苦しくなるのだ。
我々現代人は合理的であることを求め、雁字搦めになっているように見える。
不合理を忌み嫌えば仕事などできない。
だから今は働き方改革なのだろう。
仕事ができない人間、楽をしたいだけの人間に、時代と共に化けてしまったのだ。
不合理に対して文句を言えば、それが正論となる。
不合理に対して出るその文句は、確かに正しいのだ。
だがその正しさを振りかざすことは、同時に生命を殺しているということにも気づかねばならない。
生きるとはつまり、毒を喰らいながら、その毒を耐性(免疫)に変換し生きていくことを言うのだ。
今は毒を喰えるだけの器量がない。
だから器量を持とうという気概も生まれない。
だから簡単にポッキリ折れる。
今は時代が潔癖過ぎるのだ。
ちょっと人から外れると指を指される時代だ。

今の時代、合理的に生きようと思えば真夏の炎天下でもマスクをすることになる。
そうすることが周囲への思いやりであり、世のため人のためであると、散々喧伝されてきているからだ。
だから今、結果としてこれだけの人がマスクを外せないでいる。
その異常が当たり前となった。
周囲のためにワクチンを打とうも同様だ。
周囲をキョロキョロして生きている人ばかりになったということだ。
はたして本当にそれが良いことなのだろうか。

ギリシャ社会で初めて民主主義を政治として実現したソロンという人物がいる。
ギリシャ七賢人の一人だ。
そのソロンの言葉を、今こそ心に留めておく必要がある。

我々は人間なのだから、人間のことを思わなければいけないと言う人たちに従ってはならない。

執行草舟先生の書で知った言葉だ。

「人間のために」「困っている人を助けるために」と喧伝されることは、すべて嘘であり、信用してはならないと言っているのだ。
これは古代から伝わる叡智と言えるだろう。
「人間のため」「困っている人のため」と言われたら、それは正論なのだ。
否定も出来ない。
グーの音も出ない。
だから、こういうことを言う人のことを信用していはならないということなのだ。

 

自分の脳を疑うことは難しい。
そして、自分を否定することが、現代人には難しい。
「まずは他者を承認しよう」と言うが、結局それも、「自分が承認されたいがため」だろう。
互いに褒められることに慣れ過ぎているのだ。
認められたくて仕方がないのだ。
恥ずかしながら、私自身の中にそういう部分がいまだ色濃く残っているからこそよく解るのだ。
薄皮を剝ぐように、捨てていくしかないと思うのだが、なかなか捨てきれずにいる自分が情けなく思うことが何度もあった。

嫌われるくらいが丁度良いのだ。
そう思えなければ、本当のことなど一言もしゃべれなくなる。
上っ面な話しかできなくなる。
本当に、そういう時代だ。
私など、今まで褒められ過ぎたと思っている。
もっと「BADボタン」を押されるくらいじゃないと駄目だと思う。

人生半分きている。
実際、祖父や父を見れば、もう半分もないのかもしれない。
それこそ明日かもしれないのだ。
それなのに、「もっと好かれたい」「もっといい思いをしたい」「もっと認められたい」とか言って生きているようでは情けない上に格好悪い。

これからも自分に降り注ぐ運命に体当たりして生きたい。
今の自分自身に求めることはただそれだけだ。

P.S.
明日は関節エステ講師勉強会です。

妥協ゼロの愉しいスパルタ勉強会です。

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toru-imizu

関節エステプロフェッショナルアカデミー代表の射水徹です。

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