「ただ生きてきた」ことを明らめ、今こそ死生観を持つ時だ。

日常

「人は必ず死ぬ」という事実を受け容れさえすれば、過剰に病を恐れることはない。

年賀状の印刷入稿が完了しました。
昨年よりも、より明るい雰囲気のイイ感じの年賀状になりました。
宛名印刷の申し込みに苦戦し、香織先生様様でしたm(__)m
どうせ出すのですから、早く申し込めば最安値です。
11月1日に出荷とのことで、余裕を持って準備できます(^_-)-☆
11月中には終わらせてしまおう。

今日はランチタイムなしでずっと事務作業でした。
10月と11月が勝負でしょう。
唯一、人が動く時かもしれません。
どうせまた冬になればワーワー言いますから。

 

あらためて、執行先生の「現代の考察」を読み返しております。
身の引き締まる本だ。
2019年末に奥さんと香織先生と講演会に行ったことが懐かしい思い出だ。

【この2か月後には、コロナ社会だ。】

第6章の「死生観と人生」の項を読むと、現状の慌てふためきようが、この情けない様こそが日本民族の崩壊なのだと感じます。
800頁ある本ですが、是非この秋冬に読んで頂きたい書籍です。
今の右往左往している様は、死生観の欠落故なのだ。
死生観がないから、マスコミに踊らされるのです。
死生観が定まれば、振り回されることはありません。
どう死ぬかが決まれば、マスコミ情報如きに振り回されることは断じてない。
人様に言えるような立派なものではないが、私は死に方を決めている。
言えば、「へ、そんな事かよ」と言われるようなことだ。
でも、そんな事のお陰で、コロナで右往左往することもない。

病というのはコロナに限らず、「万」とあることを思い出した方が良い。
もっと先に思い出さねばならぬことは、「何れにせよ、人は死ぬのだ」という事実だ。
それは今日かもしれないし、明日かもしれない。
数年後かもしれないし、まだまだ先かもしれない。

ただ、必ず死ぬ。

その事実を忘れているから、過剰に病気を恐れるのです。
「何れ人は死ぬ」という覆らぬ事実を受け止めさえすれば、本来こんなにも病気を恐れることはないだろう。
ここまで脆弱な社会にはならないだろう。
病気になったら受け止める以外に道はない。
それで生きる人もいれば、死ぬ人もいる。
一回性の果敢無さであり、だからこそ尊くもある人間の生命なのだ。
ただ生きるだけなら動物と同じになってしまう。

人間て、なんで人間なのだろうか。
人間と動物の違いはなんだろうか。

その問いを今一度一人一人が考える必要があると思う。
病気になっても生きる人は生きるし、元気でも死ぬ時は死ぬのだ。
若い内から老後の心配ばかりしている人は、自分が死ぬという事実を忘れているのだと思う。
厳しいが、「漫然と生きている」のだ。
言い換えれば、「ただ生きている」のだ。

「それで何が悪い」と言われる時代です。

いや、別に悪くない。
たしかに好き好きだ。
ただその人からは、一切の品格は感じない。

「それで何が悪い。」

いや、別に悪くない。

 

 

「漫然と生きている。」

書いてみて、自分自身に耳が痛い。
今日一日を漫然と生きていなかったか問う機会が増えるようになった。
以前はそんなこと、1ミリも考えもしなかった。

それでも私はまったく、漫然と生きていると思う。

毎朝毎夕、改めては死に改めては死ぬ。

漫然と生きているようでは、ちゃんと死ねない。

 

私もこれからコロナになるかもしれない。
亡くなった父のように、すい臓がんになるかもしれない。
そればかりは考えても仕方のないことであり、どうなっても自分の運命を受け容れるしかないのです。

「健康健康」と、「健康大事」を叫ぶ健康病に溢れている。

この異常に気づくには、死生観を決める以外にないだろう。

P.S.
どう死ぬかを決めるから、生き方が決まる。
長く生きることが素晴らしいのではない。
短命が悪いのではない。
その生命を燃焼し切ったかどうかだけが問われている。
早く死のうがその生を全うした人の死は美しいのだ。
執行先生から教えて頂いている、常に心に留めておくべきことです。

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toru-imizu

関節エステプロフェッショナルアカデミー代表の射水徹です。

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