恩を知らねば人に非ず。
昨日読んでいた「生くる」の「恩について」は考えさせられます。
「感謝」という言葉の軽さをあらためて痛感します。
私も手紙などで「感謝しております」と使うことがあります。
使う度に、「生くる」の「恩について」が常に引っ掛かっています。
以来、安易に使わなくなりましたが、他に表現が見つからず、使うことがあります。
使い勝手が良くなっているという点で、やはり「感謝は軽い」とも言えるのかもしれません。
「生くる」には、「恩と似て非なるものに感謝がある」と書かれています。
「感謝」と「恩」の違いを、以下のように書かれています。
感謝はしっぱなしでもよいが、恩は返さなければならない。
この決定的な違いが、感謝を好み、恩を嫌う現代人を生み出したと私は推察する。
【生くる236頁より】
ドキッとするでしょう。
恩はかぎりない束縛としてのしかかってくる。
人はそこから歩み始める。
【生くる233頁より】
恩は、「失くして(捨てて)はならぬ束縛」と言える。
恩とは、それ自体が重いものなのだ。
だから「感謝」という言葉に逃げて、感謝しっぱなしで終えてしまうのだろう。
感謝には、束縛がない。
言って終われる。
それではどうも格好悪い。
「感謝してます。」
その後に、「でも」と続く話を聞いたことがあるだろう。
私もそんな言葉を使ったことがある。
「感謝はしているけどさ~」
「けどなんだ?」という話。
そんなものは、感謝などしていないのだ。
「感謝しています」は「逃げ」なのだと受け止めます。
ならば、最後まで「恩に報いなさい」という話なのだ。
恩を知れば人として生き、恩を知らねば人としての人生はない。
恩に始まり、恩に終わる。
それを人生と呼ぶのだ。
【生くる239頁より】
昨日あらためて「生くる」を読んで、私の中は何か燃えるものがありました。
恩は重い荷物故に、背負わねばならないと感じます。
「人はそこから歩み始める。」
そう書かれているのだから、恩を背負い、恩を返していくのだ。
うわべの「感謝」という、軽い言葉に逃げていてはいけない。
感謝が実をともなった時、恩に変わる。
その間には、束縛とも呼ばれる障壁があるが、それこそが実を生み出す力となっているのだ。
【生くる236頁より】
「一宿一飯の恩義」という言葉がある。
一晩泊めてもらい、食事まで頂き有り難いと感じたのならば、それは一生の恩を受けたということだ。
仮に、一晩泊めてくれて、食事を出してくれた人が後に酷い人間に変わったとしても、受けた恩に変わりはないのだ。
酷い人間になったからと言って、恩を受けた事実は変わらない。
それなのに、「あの人は変わった」とブー垂れて、恩ごとなかったことにしてしまうのはおかしな話だ。
それこそ、「感謝はしています。でも」という人の典型だろう。
「ついて行こうと思っていたのに、そんな人だと思っていなかった。」
貫かせてもらえなかったと嘆くのは、子供なのだ。
貫けなかった自分自身を嘆くこと。
事実を受け入れるのが大人だ。
人間は馬鹿でもなんでもよい。
悪人でもよいと私は思っている。
問題は、恩を知る者か知らぬ者かにかかっている。
このことを古人は、「恩を知らねば人に非ず」と喝破していた。
【生くる239頁より】
2016年からコトあるごとに執行氏の書籍に触れて来た。
書いてあることの、意味は分かる。
意味は分かるが、「じゃあ体現できているのか」と問われたら、まだまだ「はい」とは言えない。
ということは、やはり分っていないのだ。
できぬ自分と向き合う時間でしたが、決めたことを貫くための生命エネルギーを、生くるから頂きました。
P.S.
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