「信ずる」とは、「差別」である。
本日、2度目のブログ更新です。
午前中にあげたブログ→【https://wp.me/p97NB1-49n】
昨日の関節エステ勉強会の申し込みフォームが、「初受講の方」が送信できなくなっていたようです。
「特典対象確認」の【該当しない、または初受講】という項目を入れたので(赤枠)、初受講の方はここにチェックを入れて頂ければ、送信できます。
ご連絡をくれた方、本当に助かりました。
ありがとうございます(^_-)-☆
今日電話でご連絡をくれた方は、2021年のセミナーフル申し込みされました。
「先生のブログを読んで、いろいろ受講したいなと思うのですが」と、連絡がありました。( ゚Д゚)気合入ってるなー
こちらのミスで申し込みページから送信できなかった故、お話も出来て良かったです。
関節エステのセミナーは特に「基本」がありません。
だから、どこからでも学べます。
おそらく、プラスになる情報しかありません(笑)
どこから始めても、翌日からの施術が楽しみになることは間違いない。
いろいろな方がいます。
- マスタークラスが関節エステの最初のセミナーだった方もいます。
- マスタークラス以外を受講してから、マスタークラスへ進んだ方もいます。
- いくつか受講したのちに、マスタークラスへ進んだ方もいます。
- 「マスターだけはいかない!」と、心に決めている方もいるかもしれません(笑)
要は、自由です。
昨日も書いたように、自分で決めて下さい。
ピンと来れば、申し込めば良いですし、「特にこれはいいや」というものは外せば良いと思います。
自分で受講するものを決めるということは、迷うし、悩むし、大変なのです。
そこから格闘が始まるわけ。
射水を信じて飛び込めば、その都度、面白い体験が待っております。ね。人を信ずるって、大変なことだろ(笑)m(__)m
だから価値が生まれるのです。
「決める」ということは、他者を信じることでもある。
他者を信じる自己をも信じる。
「信じる」というのは実は、「差別」でもある。
言葉として今は「差別」=「悪」と考えがちだが、「愛すること」だって「差別」なのだ。
「信ずるものがある」ということは、「信じぬものがある」ということ。
何かを「愛すること」は、何かを「愛さぬこと」でもあるのだ。
人間の心は、何ものかを信ずる必要がある。
信ずべき真実がないとき、人は嘘を信ずるのである。【マリアーノ・ホセ・デ・ラーラ】
180年前に書かれたというこの言葉が、今の我々に向けて発せられたように感じるのは私だけではないだろう。
信ずるべきものを失った今は、悲しいほどにメディアにホイホイ踊らされているのだから。
あなたは何を信じていますか?
信じているものがありますか?
信ずるものがあるならば、貫けば良い。
「あなたを信じてたのに。」
死んでもこの言葉を発する人間にはならない。
「信」を貫けなかった己が悪い。
世の中には、「それでも信じ抜く」人間が必ずいるのだから。
信ずることは苦悩を伴う。
だから価値がある。
愛することは苦悩を伴う。
だから価値がある。
そういうことなのだと思う。
自分で決める自由がある。
その自由は戦いなのです。
だから大変です。
だから、「国が決めて下さい」という人が、今は多いのだろう。
人に決めてもらえば、「あの人が言ったから」と言い訳が利く。
今風の、「国が決めないのが悪い」と、国に文句を言っている人は、もう戦いから降りているのです。
戦いから降りたものに本来は自由などないのです。
それが、「自由か、然らずんば死か」というパトリック・ヘンリーの言葉として残っている。
自由とは当たり前に厳しいものなのだ。
関節エステセミナーは逃げませんから、自由に決めて欲しいです。
すでにマスタークラスはキャンセル待ちです。
メディカルセミナーも満席が出ております。
腰痛編は1席のみ空きあり。
勉強会もすでにあと半分でキャンセル待ちです。
信じてくれる人がいることを、重く受け止めております。
すべて背負ってやり抜くのみ。
P.S.
明日は香織先生宅に、奥さんと共にお邪魔します。
ちょっとYouTubeの作業もある。
明後日にはきっとこのブログで紹介できるハズ(^_-)-☆
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