秋田県立美術館で開催中の「戸嶋靖昌展」に行ってきました。

日常

自己の生命を賦活するのが、芸術。

秋田県立美術館へ行ってきました。

当初の予定は、開催初日の10月24日に行く予定でしたが、いろいろと日程がズレて、ようやく年内に行けました。
ひとまず、実現できてよかった。
初めから旅行をする気はなく。
ただただ戸嶋芸術に触れに行くための秋田訪問です。
秋田の人が羨ましい。
解ろうとせず、まずはそこに身を置くだけで良いと思います。
人間である前に芸術家であることを貫いた人のエネルギーに触れられます。
凄まじいものを感じる。

戸嶋靖昌芸術は圧巻です。
展示されている部屋に入った瞬間、静謐さが漂う。
「聖櫃」という言葉がビタッと填まる。
そんな空間です。

奥に行けば行くほど、晩年の作品が近づくほどに場を支配する圧力と言いますか、気が重厚で。
最初のフロアを観ただけで、疲れた。
1Fフロアを先に見終えていた奥さんが、椅子に座ってボーッとしておりました。
「疲れるね」と言ったら、「疲れるね」と。
戸嶋絵画はよくある展覧会のような、気楽に楽しむ類のものではないと感じます。
眠っていた魂が叩き起こされる絵画です。

昨日の帰りの電車で読んだガイドブックにこう書いてありました。

ゴッホや戸嶋の芸術は、体当たりして燃え尽きる人生を表わした。
燃え尽きることが目的で、本当に体当たりしたら、あとのことは関係ない。
文明社会の中である程度のことをした人は誰も明日のことを思い煩ってはいない。

自分が生命をこの地上に叩きつけるのみです。
この地上に生命を叩きつける芸術としてキャンバスに表わしたのが戸嶋絵画なので、見ると疲れるのです。
それは飾り絵ではない。
芸術は対峙するものであり、自分の生命と生命の本質を描いた芸術作品が交感し、非日常を感じて、自己の生命を賦活するのです。
そうではない芸術は芸術ではない。

「俺たちはきちんと対峙していたんだね。」

 

自己の生命を賦活する。
本当にそういう絵画だと感じます。

すごい疲れるのに、賦活する。
矛盾しているようですが、体感として理解している。
肚の奥そこから力が湧いてくる感覚を得ております。

戸嶋靖昌は余命宣告を受けてからも大した治療もせず、全精力を絵画に注ぎ込んだといいます。
人間である前に、芸術家であった人なのです。
今は、危険を避け、保証を求め、とにかく生きることのみが大事であるかの如く、その思想は生命の本質から外れ、本来の在るべく人間の姿を失ってしまっている。
肉体を大事にし過ぎるが故に、魂を根こそぎ抜かれたのが我々現代人だと、まずはその情けない事実を受け止めたい。

魂とは、肉体を拒絶する何ものかである。【アラン定義集11頁より】

戸嶋靖昌は肉体を省みずに最後の絵画にすべてをぶつけて死んだのです。
その魂が今も生きていることを全身で感じてきました。
命を落としてもやり切らねばならないことが、我々人間にはあるのだ。
本当に凄い空間でした。

 

宿に着き、温泉に浸かり食後21時には寝てしまった。
午前2時頃、ひとり目が覚め眠れなくなりました。
そのまま読書をしていたのですが、内からなんとも言えぬ衝動が湧いてきました。

2日目も美術館へ足を運び、夕方帰路に着きました。

美術館のみの秋田でした。
初日から雪がチラつき、2日目も空は鈍色。

【分単位で空模様が変わっておりました。】

粉雪が舞うほどの風と雪とほんの時折見せる晴れ間。
最高気温が氷点下でした。
タクシーの運転手さんも乗るたびに、「あまりこういうの(天候のこと)ないんだけどなぁ」と。
戸嶋靖昌が僕らを秋田に迎え入れてくれたのだと、勝手に解釈しておりました。

また東京に戻ってきたら戸嶋靖昌記念館へお伺いを立てよう。
戸嶋靖昌記念館→【http://shigyo-sosyu.jp/toshima/index.html

P.S.
膨大な戸嶋絵画とひとつひとつ対峙することは、まるで修行のような時間でした。

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toru-imizu

関節エステプロフェッショナルアカデミー代表の射水徹です。

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