自然に触れると、感覚が開く。感覚が開くと、脱力できる。

日常

身体の力が抜けない人は、多いです。
自分で抜いているつもり、でも、入っている。
その入っていることに、自分では気づけない。
「寄り掛かっていいですよ」と言うと、寄り掛かるのではなく、押してきたりね。
私の美容師さんが言ってました。
「頭洗う時、自然に頭を預けてくれる人が少なくなった」と。
これは無感覚化からきているのです。

今は「無感覚になりましょう」という世の中です。
満員電車なんて感覚を閉じなければ乗りたくないでしょう。
大勢の方は、マスクをし、イヤホンをし、スマホを見てやり過ごす。
当たり前だけど、満員電車で大自然の中でするような「開けた深呼吸」なんてしたくないよね。
「ん~最高~」なんて言って満員電車で気持ちよさげな顔して深呼吸してるオッサンいたら、絶対逃げるでしょ?
もし臭い人が隣にいたら、口で呼吸をしたり、嗅覚を閉じようとしませんか?
自然の中ではマスクもイヤホンもスマホ(スマホは、今や無理な人が多いのでしょうが)も、持ち歩きたくないでしょう。
鳥の声や虫の鳴き声、葉を踏み歩く音、木々が揺れる音、風の音を、自然と聞きたくなる。
自然を自然と受け入れている状態になる。
頭で考えず、身体が勝手に深呼吸をしているものです。

 

痛み止めのCMが多いのも「無感覚になりましょう」ということ。
疲労するたびに湿布をペタペタ貼りましょうというのも、感覚を無にするためのこと。
痛みは嫌だが、日本ほどの湿布大国もないのでは。
中には「痛くなりそうだから」と湿布を貼る人もいる。
とにかく感覚をなくして過ごしたいのだ。

有り難いことに道も歩きやすい。
整備のおかげでデコボコを感じずに歩けます。
さらに分厚いクッションのシューズですから、地面の固さを感じることもない。
駅にはエスカレーターがあり、勝手に上まで運んでくれる。

エレベーターもあるし、身体に負荷が掛からない。
駅のホームには安全装置がついていて、危険を察知する必要がなくなっている。
すべて良いことではある。
不快を感じなくて良くなったし、住みやすい世の中なのだ。
無感覚でも生活に困らなくなった。
便利な世の中ゆえに、無感覚でいてよいのだ。
誰もが無感覚を求めている。
空気清浄機もそうでしょう。
スギ花粉を感じたくない。
とにかくあげたらキリがないほど、「無意識に無感覚化を求め、無感覚でいられることが心地良い世の中になった」のだ。

自然の中に行きたくなることありませんか?

 

 

 

 

 

山や川など、郊外に行けたら良いですが、探せば都内にも自然はある。
五反田の近くには、林試の森公園がある。
ふと思い出し、行きたくなった。
きっと感覚を閉じていたのだろう。
よく早朝に、林試の森公園で逆立ち瞑想していたことがある。
自然の音を聞きながら。
感覚を開くには自然に触れるが一番だ。
養老孟司さんの本に、「自然には意味のないものが溢れているから良い」と書かれていた。
今は意味のあるものをしか求めない。
意味のないものは極力排除という世の中だ。
意味あることで身を固めることが、無感覚化となる。
時には意味のないものに触れてみる。
風の音や、砂利を踏む音、川の音、鳥の鳴き声に、別に意味はないでしょう。
「そんなの聞いて意味あるんですか?スマホのが楽しいよ」が、今時の感覚なのかもしれないね。

「ヨガやると健康にいいですか?」と聞かれる。
意味がないことはやりたくないのだ。
こんな風に書くと、きっと「そんなつもりではありません」と言うだろうけど、無意識にそんなつもりなのだ。
これも無感覚化なのよ。
意味がないことはしたくない。
意味があるならやる。
効果がないことはしたくない。
効果があるならやる。
「瞑想に意味あるの?」も同じこと。
「意味ないからやってみなよ」と言ったら誰もやらなそうだが、意味を求めている時点で、それは瞑想ではない。

林試の森には、裸足の女性ランナーがいる。
それを観て以来、僕は足袋で走るようになった。
さすがに一般歩道を裸足はね。
足袋でも十分、自分の脚の貧弱さを自覚できた。
地面の固さって凄いんだよね。
きっと彼女の感覚は開けているのだろう。
脱力もうまいハズだ。
週末は林試の森へ行こう。
雨でもいい。
雨に濡れるのも気持ちが良い。

いま治療が終わった。
最後は全国トップクラスの空手少年。
彼は完全脱力系。
力を抜くのがメチャクチャうまい。
感覚を開いて、週末の埼玉県大会はあっさり優勝でしょう。

P.S.
これから毎週木曜日の勉強会です。
まずは一旦、裸足になろう。

P.S.2
いま勉強会終了。
ブログ、途中になってました。

toru-imizu

関節エステプロフェッショナルアカデミー代表の射水徹です。

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